いなざわ「衛生」今昔物語

昭和20年代|昭和30・40年代昭和50・60年代平成時代以降

   
昭和20年代

 終戦後、し尿はお百姓さんが近所の家庭を廻ってヒシャクで桶に集め、畑の中の貯留かめ(すがま)に運んで腐敗させ、畑の肥料として利用していました。それにより取れた作物の一部を各家庭に配り、大変喜ばれていました。
当時は、畑の隅に貯留かめがよく見られました。


昭和20年代後半
〜30年代前半

 人口の増加と化学肥料の普及に伴って、し尿処分に困る家庭が増えだしました。このため、初代社長により(株)三共社(分社後は、現在の(株)サンキョークリエイト、三協商事(株))を西枇杷島地区で設立し、お百姓さんの代わりにし尿収集事業をはじめる事になりました。当時は、この仕事をして下さる人が、全くみえず人材の確保に非常に頭を悩ましました。そんな中、地元の有力県会議員さんの働きかけで、岡崎刑務所の刑期を終えた方々をご紹介していただき、この仕事を通じての社会復帰と、彼らの更生にも努力しました。

 この当時のし尿収集はリヤカーに桶を10本積み、ヒシャクで各家庭のし尿をかめから桶に移し替え、その後に消毒器で消毒をしていきました。当時のし尿収集料金は、抜き取り及び消毒作業で一本当り30円で、桶がすべていっぱいになると自動三輪車の木製の箱に積み替えて運びました。この木製の箱は桶50本分のし尿が積載でき、現在のタンクの役割をしていました。

  運び先は、お百姓さんの貯留かめで月に何本と契約をし、その契約先を廻りましたが、し尿の増加に伴い余ったし尿は、畑に穴を掘り、そこにし尿をあけ、覆土をするといった処分が必要となってきました。やがて、そのし尿を処分できる土地もなくなると、蒲郡より船を調達し、日光川から名古屋港港外に海洋投棄していました。

リヤカーの様子 木製のタンク
リヤカーでの汲取りの様子 木製のタンク

 

 昭和29年「清掃法」(公衆衛生の向上を図ることを目的とした法律)が制定され、清掃事業(し尿処理、ごみ処理等)は、市町村の固有事務となりました。これにより新川町では坂町地区に300〜400世帯のモデル地区をつくり、し尿収集を業者委託で行うことが試されました。その後西枇杷島町をはじめとし、近隣市町村でもし尿収集作業を許可制とし、正式に業者委託で行うようになっていきます。

 一方、三共社は、し尿処理の広域的な需要(安城市や鳴海町など)に対応し、分社をし、各地域の許可業者となりました。しかし、両社とも当時は、経営力が低く、関係市町村から事務所の確保など多大の支援を受けました。
稲沢市が、稲沢町・大里・明治・千代田・清水地区と合併し稲沢市(当時人口5万514人、加藤兵一市長)が誕生したのもこのころです。



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